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過日(17)

 その夜半過ぎ。
 扉を叩く音がするので開けると、そこには颯くんが立っていました。
「こんな時間にどうしたの?」
 と僕が聞くと颯くんは『散歩に誘いに来た』と言うのでした。
 月が半分あるせいか、外は思ったより明るくて波打ち際も良く見えました。
「波音が気持ち良いね」
 僕は何だか照れくさくて、どうでもいい事を口にしました。僕には、颯くんがこんな夜更けに僕を誘って散歩をする目的が何なのかさっぱり分からなかったのです。
 手持ちぶさたな気分で、颯くんの後を僕は着いて歩きました。
 しばらくそうやって歩いていると、颯くんがふいに立ち止まって振り返って下から僕を睨み付ける様に見詰めて来たので、僕はびっくりしました。
「颯くん。もしかして、怒ってる?」
 僕が恐る恐る聞いてみると、颯くんはコクと頷きました。確かに、散歩に誘いに来たと言っておきながら海を見るでもなく、何を言うでもなく颯くんは黙っていたのです。
「どうしてだか、分からないんだけど........」
 僕はその理由が本当に分からなくて、戸惑った声をあげました。
 今日、僕は自分が少しだけ変われたと感じていました。僕はそうなれた自分を、とても幸せだと感じていました。そして、花寿子も自分の道を歩こうとしていると分かって嬉しかったのでした。僕は逃げて、結局逃げたままだったけれど、みんなのお陰でそれでも少し変われたと思っていたのです。
 そして颯くんは、僕が変わった事を喜んでくれていると思っていたのです。それなのに、今の颯くんはどうやらすごく怒っているのでした。
 僕が困り果てて黙っていると、颯くんは静かに首を振ってから
「どうして、圭介」
 と小さく呟きました。
「何が........?」
 僕は颯くんにそう呟かれて、急に怖くなりました。理由もなく、逃げ出したい気分に狩られたのです。僕は、慌てて颯くんから目を逸らしました。逃げ出したいと思った事を、見抜かれたくなかったのでした。けれど、颯くんは畳みかける様に、
「本当は、俺、自分が子供だって十分分かってる。けどさ、圭介。お前、無理しすぎ!」
 と詰め寄りました。僕の顔は、強張りました。颯くんが、僕が僕にさえ隠してしまっている僕を知ってると気が付いたからでした。どうして、と聞かれて僕が怖くなったのは、颯くんが僕という人間を良く知っているのだと気付いたからなのです。それが分かって、僕は怖くなって颯くんの前から逃げ出したくなったのでした。
 颯くんは、僕の表情が強張ったのを見逃しませんでした。頑なな僕を見て、諦めた様に大きく一つ溜息を付きました。そして、颯くんは僕の腕を取って僕が逃げない様にしてから、僕をしっかりと両目に据えて
「俺、なぐさめに来た方なんだぞ」
 と言いました。颯くんの瞳は、僕よりも辛そうでした。それでも僕は、
「颯くん、でも....」
 と曖昧な笑みを浮かべて、どうにか逃げ出したいと考えていたのです。弱い僕、それはちっとも変わらないままなのでした。逃げたい、逃げたい、逃げたい。そればかりが頭を巡っていました。
「圭介、今日その感情から逃げちゃ駄目だっ!」
 颯くんの声は、必死でした。僕が認めたくないと願っている事を、認めさせようと必死でした。僕は、本当は分かっていました。自分の中に在る感情が、何という名前をしているかを。僕はその感情の名前を嫌という程、知っていたのです。
「でも、欲しくないんだ。颯くん、嫌だ。帰ろうもう遅いし、帰ろう!」
 僕は耐えられなくなって、叫ぶ様に懇願しました。
 僕は永久に、この感情だけは欲しくありませんでした。僕は、誰かを恨みたくなかったのです。自分を憐れみたくなかったのです。僕は叫びたくなかったのです。やさしいままでいたかったのです。
「明日になったら、圭介はもうその感情を表に出せなくなる。きっと、一生出さないでいる!その感情は悪くないんだ、今、お前の中で閉じこめたら一生消えない生傷になる。圭介、分かってるんだろ?本当は、分かってるんだろう?自分が今どれ程『悲しい』か分かってるだろ!認めなくちゃ駄目になるんだよ!自分が悲しいんだって、今悲しくてしょうがないんだって。逃げたってしょうがないだろ?」
 颯くんは、僕の中で一番大きかった感情を見抜いていたのです。僕が逃げて、逃げて、逃げて、最後まで逃げ様としていた感情がある事を知っていたのです。僕がその感情を認めない事を、颯くんは怒っているのでした。
「悲しいなんて、言えない!」
 僕なんかより、もっと悲しい人が僕の側に居るのです。父や母や妹が居るのです。一人、今まで何も感じずに生きて来た僕が、悲しいと口にする事はまるで被害妄想の様で僕には耐えられなかったのです。逃げてばかりなのに被害者だと主張する様で、何の努力もしていないのに一人だけ助かろうとしている様で辛かったのです。
「大丈夫だから、圭介。認めても、圭介が悲しいんだって言っても、今日ならそれは逃げでもなんでもないから。圭介の心がただ悲しかったんだってだけで済むから。言わないままで居る方が、後で苦しくなるから。認めてくれよ、圭介。俺は、圭介が隠していたいと思うその気持ちも分かる。でも認めて欲しいんだ。俺、見えてるから、圭介の傷が見えてるんだよ。詳しい事、何一つ知らないけど、それでも圭介が今悲しいんだって分かるんだ。圭介、そんな面明日もしてるつもりかよ。平気そうなフリで、一生悲しんでるつもりかよ。そんな自分を見せといて、俺に何もするなって言うのかよ!圭介が認めなきゃ、俺何にも出来ないだろ!」
 颯くんは、どうして僕にここまでしてくれるのだろう。僕は颯くんの言葉を聞きながらそんな事を考えました。
「颯くん、他人の感情なんて背負わない方が楽じゃないか....?無理して、僕の気持ち受け止めなくても....」
「無理なんかしてないし、背負いたいヤツのだから背負わせろって言ってるんだよ!」
 颯くんは、真っ赤でした。僕は、颯くんにそう言われてプチンと今まで張っていたモノが切れた感覚を覚えました。肩が脱力して、颯くんに掴まれていた腕もストンと力を失って、僕はその場にしゃがみ込んでしまいました。自分の本心を認めても良いのだと、それは悪い事ではないのだと、今まで誰も僕に言ってはくれなかったから、それは僕の中で認めてはいけないものになっていました。今日初めて颯くんが、僕じゃない誰かが、僕が悲しいと認める事を待っているのだと知って僕は不思議なけれど幸福な気持ちになったのです。

  つづく
by yoseatumejin | 2005-02-07 13:51 | 文/過日(全38回)


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