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過日(01)

題 過日(かじつ・すぎたるひ)

 悲しみだけ、さぁ囲みましょう。

          一

 僕の初めて見た世界に、やさしい男の子がいました。
 僕はその頃大学の二年生で、その男の子のお母さんがやっている民宿に住み込みで夏休みのアルバイトをしていました。民宿のあるこの町は、毎年夏になると海へやって来る観光客で賑わっている普段はゆったりとした静かな町の様でした。
 僕の仕事はやはり力仕事が多く、免許も持っていたので買い出し等も手伝って大変重宝がられていたようです。
「一人しか雇えなくてごめんなさいね」
 とお母さんは時々僕に言うのですが、僕には強い味方がいたので一人きりの寂しいバイトではありませんでした。
「颯(そう)くんが手伝ってくれるので、大変助かってますから。全然平気ですよ」
 男の子の名前は、桐島(きりしま)颯と言いました。お母さんは、ユキノさんという名前でした。二人は、やさしい笑顔が似合うのでした。
 二人のやっている民宿「志のや(しのや)」は、海岸から少し離れており、盛況な筈のこの海岸でも少しお客様が少なかった様に見えました。それでも毎日四十名近いお客様が休憩や宿泊でやって来るので、三人が腰を落ち着けて休めるのはいつも午後の十時を過ぎていました。
 それでも颯くんは、毎日元気に手伝っていて、やはりユキノさん一人という事で自分がしっかりしなくてはと心に誓っている様でした。ユキノさんも、颯くんの気持ちがよく分かっているようで颯くんに対して「あなたは子供なんだから」といった言葉は一度として口にしていませんでした。
 確かに大変なアルバイトだな、と思いましたが二人のやさしい人柄のおかげで辛いと感じる事はありませんでした。僕は、ユキノさんと颯くんが大変ながらも慎ましく働いている姿が大好きでした。

 僕達は、どんなに遅くなった日もきちんと三人で夕食を囲みました。それが、この家の一番大切な決まり事であり、お互いにとっても必要な時間でした。
 八月三日だったと思います。夕食の時ユキノさんが、
「明日は、お泊まりのお客様が多いの。お出しする夕御飯の仕込みを朝からしたいのだけれど」
 と僕を見て言うので、僕は
「それじゃ、市場まで買い出しに行ってきましょう」
 と別段嫌でもないその申し出を快く受けました。
「すみませんがお願いしますね、圭介(けいすけ)さん。颯も一緒に行ってちょうだいね」
 ユキノさんは、僕に頭を少しさげて颯くんの方を向くとそう言いました。
「分かった。圭介、朝はちゃんと起こしてやるよ。だから、今日も宿題教えてくれよな」
「ありがとう、助かるよ」
 僕は苦笑しながら颯くんにお礼を述べました。颯くんは、僕が朝起きるのが苦手なのを知っている様で、早く起きなければいけない時はちゃんと起こしてくれるのでした。
「もぅ、颯ったら。圭介さんにそんな口を聞くなんて失礼よ」
 ユキノさんは困ったように言うのですが、颯くんも僕も気にしてはいませんでした。僕は颯くんが遠慮なくしゃべりかけてくれる事が、何だか兄弟になったみたいで心地良かったのです。
 次の日、約束通り颯くんに起こしてもらった僕は、颯くんを乗せて市場へ向かいました。
 朝日はまだその気配を隠したままだったので、夏独特の肌寒さを感じました。凛とした空気が生み出す冷気とでも言うのでしょうか、まだくすんだままの世界にそれでも忍び込んでいる新しい風の気配があるのでした。颯くんは子供特有の元気さで助手席の窓を全開にして、まだ明けぬ朝の風を吸い込んでいる様でした。
「元気だね、颯くんは」
 僕がそう言うと颯くんは
「暑くて寝れなかったから、寝不足」
 と一つ欠伸をしてみせました。
「颯くん、着くまで寝てていいよ」
 僕は、昨日颯くんが遅くまで宿題を頑張っていたのを知っていました。
「大丈夫だよ。でもさ、圭介って運転上手いよな。母さんと大違いだ」
「そうかな?ありがとう。ユキノさんは運転下手なのかい?」
「下手って言うより、怖いよ」
 颯くんはそう言うと、ハンドルを持っているユキノさんの真似らしくキュキュキュッキュッとぎこちない動きをして見せました。
「母さんは、あれでゴールドカードだって言うんだから世の中変だよな。圭介はいつ頃免許取ったんだ?」
「去年の夏頃だよ。一発試験を五回受けたんだ、お金がなかったけど欲しかったから」
 僕がそう言うと颯くんは「五回で受かるなんて凄いじゃん」と褒めてくれたのでした。
「本当にお金がなかったから、頑張ったよ。だから宝物だね」
 僕は颯くんが素直に称賛してくれたのが嬉しくてそう言いました。僕は、本当になんとか掻き集めたお金で免許を手にしていたのでした。
 颯くんはそんな僕の横顔をチラッと見てしばらく沈黙した後、
「なぁ圭介、俺聞きたい事があったんだよ」
 と全く別の口調で切り出しました。
「何だい?急に改まって」
 僕はどきりとせずにいられませんでした。平気なフリをして「何だい?」なんて言ってみてもその声はひっくりかえって、僕の性格通り震え上がっているのでした。僕は二人に、自分の事を全くと言っていい程話していませんでした。それは僕が、他人に詮索される事が堪らなく苦痛だと感じる人間だからでした。その為か僕は、苦手な人には挨拶すらまともに返せない程気弱な人間でした。でも小心者の底意地か、そういった自分を見せる事も出来ずにいるのでした。だから僕は、やさしいユキノさんにも、兄弟の様な気さくさで接してくれる颯くんにも、本当の自分を隠していました。
 颯くんは、僕の気持ちを知ってか知らずか僕の動揺など全く気にしていない様に聞きたい事とやらを続けました。
「圭介、なんで家なんかにアルバイトに来たんだ?時給だって決して高くないし、夏休み一月潰してやる程割が良くないだろ?」
 僕は、ハンドルが妙にぶれないように細心の注意を払いながら颯くんの表情を盗み見てみました。(ハンドルはぶれていたかもしれません。僕の中では、精一杯の平常心を払っていたつもりなのですがきっと駄目だったと思います)颯くんは、いつも通りでした。颯くんは、笑うと大変やさしい顔付きになり母親であるユキノさんそっくりになるのですが、普段の顔はあまり変化がない感じでした。別段怒っている様な顔などではないのですが、僕のような他人の顔色を上目使いで覗き見なければおちおち安心も出来ないような小心者には、颯くんの様な端正な顔付きの小さな変化が分からないのでした。けれど、僕は小さな大人の努力と、いつも通りの颯くんの表情に多少の安心感を得て
「そりゃ、社会勉強に丁度いいかと思って。それに来てよかったよ、毎日楽しいし」
 と通り一辺倒な返答をしたのでした。けれど、僕の不安は当ったのです。前に、ユキノさんも僕に颯くんと同じような事を聞いたのでした。その時も僕は大変下手くそな言い訳をしたのですが、ユキノさんはそれで納得してくれたのでした。(もちろん、フリであったと思いますが僕にとってはそれで十分なのでした)
 僕がそのまま黙っていると、颯くんは納得した様に笑って「楽しいんならよかった」と言ってこの話を終わらせてくれました。
 市場に着いて買い出しをし、この日も無事に一日が過ぎて行きましたが、僕は、申し訳ない気持ちで一杯でした。僕が、大学からも自宅からも遠いこの海岸でアルバイトをしようと決めた理由は決して気持ちの良いものではありませんでした。僕がその理由を話したとしても、二人が軽蔑の眼差しなど浴びせる事はないだろうとは思ってはいました。二人が僕を大変信用してくれている事は、たった数日でしたが分かっているつもりだったからです。それでも僕は、二人に自分自身の事情たるものを話す事は出来ないでいたのでした。彼らが悪いのではなく、僕が怖いだけなのでした。僕は自分が小心者である事を、ユキノさんや颯くんに決して知られたくはなかったのです。僕は自分が申し訳が立たない位弱い事を自覚していました。そして、自覚があるだけに情けなくてしょうがないのですが、それでも否定しきれない弱虫でした。軽蔑される事はないと解っているユキノさんと颯くんに対してさえ、万に一つの逆転を恐れて何も言えず、咽元に出かかる言葉がある事を知っていながら、自分のその真実の声すら苦々しく思え恨めしいのでした。
 結局、小心者の僕は折角心地良く行っているのだからと全てから逃げ出していたのでした。

   つづく
by yoseatumejin | 2005-01-06 11:03 | 文/過日(全38回)


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